1985年6月14日東京生まれ。
長唄演奏家を母に持ち、幼少より手習いを受け、
長唄を人間国宝東音宮田哲男師(貴音 三郎助)に師事。
三味線を杵屋三澄師に師事。
東京芸術大学音楽学部邦楽科卒業。
(平成19年3月卒業時皇后内桃華楽堂にて御前演奏に招かれる)
平成20年より、長唄東音会同人 東音半田綾子許される。
平成23年より、長唄貴音流 貴音 綾の名を許される。
はじめまして。貴音 綾(東音 半田 綾子)です。
現在、長唄演奏家という肩書きでおりますが、まだ新しい表現者としての自分を模索中でございます。邦楽という渋いことをやっておりますが、おしゃれ大好き、飲み会大好き、至って普通の若者でございます。
こんな私がなぜ長唄の世界に入ったかというと、下記のようになります。
長唄演奏家の母を持ち、6歳から唄や三味線、お囃子の稽古をはじめました。
これは自分からではなく、「やらされていた」という感じ。
それもそのはず、私が生まれた時代は、ご近所から『チントンシャン』が聞こえてくる環境はなく、どちらかと言うとモーツァルトや、ベートーベンのような西洋の音楽でした。西洋の旋律は、聴いていてとても心地がいいし、何しろ私の周りの友達は、みんなピアノを習っていて、かっこ良く見えたのです。
どうも耳慣れない邦楽に、私はあまり好きになれませんでした。
とは言っても昔から音楽が大好きな私は、邦楽以外は積極的でした。
小学校の時は聖歌隊にピアノやバイオリンもほんのすこしかじり、中学ではミュージカルやジャズにハマり、一人ジャズ喫茶へ通っていました。
高校では、軽音部の部長になり、ガールズバンドでドラムを担当。
またR&BやHipHop、ソウルなどのブラックミュージック全般にハマり学外では、女性ボーカルのソウルバンドを組み、下北の屋根裏や、原宿ルイードでライブ活動をしていました。
中高の合唱交歓会では毎年指揮者をし、私の学生生活は気がつくといつも音楽がありました。
高2になると、みんな周りは推薦や受験を決めていて、絶対に勉強したくなかった私は、音大受験を決めました。
ジャズ歌手になりたくて、ジャズ科に行きたかった私はいろいろな音大の資料を集め始めました。そんな時、母に、「どうせ音大に行くなら、一流に行きなさい」と言われました。母も東京芸大の邦楽科でしたが、芸大にジャズ科はなく、「大学の副科で、洋楽も習える」と、まんまと母に説得されるがまま、芸大の邦楽科へ受験を決めたのでした。
とにかく音大に行きたかった私。「ジャンルはちがっても、まぁいいっか」というノリだったのですが、いざこの世界に入ってみると、液状化現象。
どっぷり浸かりざるおえなくなり、現在に至ります(笑)
今の日本は、完全に西洋化し、音楽業界も外国かぶれになり、どんどん新しさを追求しています。
でも、日本人はどんなにがんばっても、本場には勝てないのだと思います。
黒人とは声帯、リズム感、体のつくりが違いすぎるのです。
とは言っても、日本人には対抗できることも沢山あります。
まずは着物が似合うし、表現の繊細さ、手先の器用さ、おもてなしの心。
震災以降、放射能や様々な悪条件で、外国人観光客が激減しています。
今こそ、日本人のアイディンティティをアピールするときだと思います。
沖縄の三味を聴くと、理屈なしに癒される。
どんな時代に育とうと、日本人にはまだ日本の音に反応してしまうDNAがあるのです。いえ、そう信じたいです。
しかし、いつまで日本の伝統音楽を残せるのか?
このまま何もしなければ、確実になくなるでしょう。
確かに、日本の伝統芸能は、閉鎖的で、しきたりが多過ぎ、気軽に手をだしずらいというのが事実です。「それが伝統というものだ」と言われてしまえば、それまでですが。こんなに時代は変わり、物質が溢れ、情報が溢れ、選び放題の若者には、面倒な考えは理解できないのです。しきたりも、今こそ時代とともに、変わるべきだと思います。
最近は、実力派若手歌舞伎俳優が歌舞伎に留まらず、テレビにも才能を発揮して、話題を呼び、若者に多くの歌舞伎ファンを生み出したり、京都の舞妓に憧れて舞妓体験をする女性も多くいるようです。
できるだけ窓口を広く広く、多くの日本人が、外国に対抗できる芸術を残し、また進化させていくべきだと思います。そのためには、国が活動している芸術家に、もっと積極的に援助し、育てていってほしいです。
私も、一人の日本に生まれた若者として、日本人にしかできないことの可能性を追求し、新しい何かを生み出せたらと思います。